フィリピンに学校を設立

私の起業のきっかけは、フィリピンの学校に出資をしたことです。
この話をすると、よく、「なぜフィリピンに学校を作ったのですか」と聞かれることがあります。
ただ、自分で学校を設立しようと思ったわけではなく、当時のお客様に声を掛けられたことが始まりでした。

それは34歳の頃です。当時、私は国内最大手の損害保険会社の社員として、代理店や企業を訪問していました。その時、あるお客様から「フィリピンに学校を作るので、出資をしませんか?」と言われたのです。

さすがに即答はできなかったのですが、翌日にはそのお客様に「出資します!」と回答していました。
出資額は300万。34歳のサラリーマンがはいどうぞ、と出資するには大きな額ですよね。

それでも、なぜ直ぐに決断することができたのかというと、実は株で儲けたからなんです。私は仕事で経営者と話すことが多かったので、社会勉強のために株の運用をしていました。
フィリピンでの学校設立の話が来る2年ほど前に、とある新規上場企業の株式を購入していたのですが、その株がみるみる内に何倍にも上昇し、数百万円の利益を得ることができたのです。

株の売却益を手にした私は、そのお金をどう使おうか考えました。私は元々物欲があまりなかったので、車や時計を買うよりも、自分の人生の思い出に残るような使い方をしたいと思いました。
それに、以前から、人はお金の“稼ぎ方”以上に、“使い方”でその人の価値が表現されると思っていました。

ですから、会社から受け取る給与は生活費や貯蓄に充てたとしても、生活費に使う必要のない不労所得は何かの役に立てたいと考えていたのです。
苦労せずに手に入れたアブク銭だし、散財するということに価値を見出せなかったため、せっかくなら、世の中にとって意義のあるものに投資できないか、とずっと考えていました。

そんなふうに悩んでいたところに、フィリピンの学校設立の話を持ちかけられたのです。話をもらった時は、これだ!とピンときたのを覚えています。そこから一晩考えて、決断をしました。
今振り返れば、いろいろなタイミングが重なったと思っています。フィリピンの学校に出資すると知人に話した際には「お前は騙されてる」と言われたりもしてました。でも、どうせ偶然儲けたお金だし、騙されたとしても話のネタになるかなと思ったのであまり気にしてませんでした。

現地を訪れて

出資した後は自身の業務が慌ただしかったこともあり、学校の動向はほとんど気にしていませんでした。
出資をしてから数か月後、話を持ちかけてくれた共同出資者に「先生たちを集めて合宿をするから、そのタイミングに学校に来たらどうか」と言われて、当時の上司にしぶられながらも3月に1日だけ会社を休んでフィリピンへ向かいました。(ちなみに、その上司には、自分が学校設立に携わっていたことは伝えていませんでした。)

そして、現地を訪れたことで、自分がそれまで持っていた考えが変わりました。
学校に到着すると、数十人の生徒たちが一斉に私のもとに集まってきました。生徒たちは、今まで見たこともないようなキラキラした目でこう言ったのです。「私たちはいつになったら日本に行けるの?」、「早く日本へ行きたい!」と。
そこで、初めて私は自分の中の意識が大きく変わりました。

自分は、ある意味自分の人生の自己満足で出資していたけど、目の前の生徒たちは、時間とお金をかけて日本語を学んでいて、日本に行くことを本気で夢見ているのだ、と気づかされました。この学校でただ日本語を学ぶだけで日本に行くことができなければ、ここにいる子どもたちの時間とお金は無駄になってしまうのです。
ここに通っている生徒たちを、何としても日本に連れていかなければ意味がないと強く感じました。

その日から、どうやったら彼らを日本に連れてきて、きちんと働きながら日本で暮らせるのかを考えるようになりました。自分の中の仕事観や、生きる方向性が思い切り変わりました。このまま大手企業で時々不満がありつつも安定して働いていくのだと思っていましたが、外に飛び出なくてはいけないと思ったのです。
今の私、そして会社があるのは、この日があるからだと、今も思っています。

出資から8年、起業の決意

その後、いろいろな経験を経て、やっと自ら会社を作る決心がつきました。今までは起業をしても、自分の生活を維持できるほどのビジネスを作れるイメージがありませんでした。その間は、(私が34才の時に声を掛けてくれた、もう1人の学校の出資者である)元取締役に、多大なご苦労をおかけしました。

現在、フィリピンの学校では、日本語教育と、IT技術者育成を行っています。フィリピンのTESDA(日本の文部科学省のような行政機関です)の認可も得ています。ここ数年で卒業生が日本に来られるようになり、日本の一部上場企業への就職や、国立大学への入学など、私達も驚くほどの優秀な生徒が出てきています。

彼らの強みは、目的意識の高さです。生まれた国に関係なく、目的意識の高い人間は優秀だと感じています。今後は、フィリピンの学校の卒業生が一人でも多く日本で活躍できる道筋を作り、人口が減少する我が国の経済活性化に寄与してくれる若者をより多く育成したいと考えています。
今後は、看護・介護業界で活躍できる人材の育成や、フィリピン以外の国の若者が日本に来られるような道筋も広げたいと考えています。

これまでの経験で感じたこと

私は、17年勤務した保険会社、および2年半勤務した前職(人材ベンチャー)で、中小・中堅企業の法人営業を行っていました。訪問した企業数は、1,500社を優に超えると思います。保険会社時代は事業承継対策や企業年金の提案を中心に行いました。前職では企業の経営課題を、人的資源を活用して解決する方法を考えてきました。

仕事柄、多くの中小・中堅企業の経営者と、膝を突き合わせて話す機会がたくさんありました。私の社会人人生のほとんどは、経営者から直接、経営課題を聞いている時間だったと思います。
その経験の中で、私なりに感じてきたことがあります。
それは、自社の長所を活かしきれていない企業がとても多いということです。特に、技術力のあるメーカーであるほど、顕著のような気がしています。
多く見受けられるパターンは、大手企業から自社の技術を必要に応じて使われている、いわゆる“下請け”に甘んじてしまっている企業です。また、自社製品や商品・サービスの特徴を、顧客にしっかりアピールできていないという企業も多く見受けられる気がしています。

案外、自社のことが一番わかっていない、という企業が多いのです。自分達の中では100%理解して伝えたとしても、相手には伝わっていないことが多いのです。自社の課題はこれだと思っていても、周囲からしたらそうじゃないのではないか、と言われたりすることもあるでしょう。そこに気づいてもらうことが、私の役割だと考えています。
これまでの経験から、企業が持つ課題の本質を見極める能力があり、またそれを忖度なく言える、というのが私の強みでもあります。

中小・中堅企業のブレーンとして

企業の本質的な課題に切り込んでいくために、自分の意見を忖度なくハッキリ伝えることがあります。意見で衝突することはありますが、そのスタイルを否定されることはほぼありません。なぜかと考えた時に、私の本気度が皆さんに伝わっているからなのではないか、と思っています。自分だけが儲けようとか、いいから俺のいうことを聞けという気持ちは一切なく、真剣に議論したいという思いで話しています。それが皆さんにも伝わっていたら嬉しいです。

中小・中堅企業には、開発・マーケティング・ブランディングという部門に、専門の人員を置くほど余裕がないことも事実だと思います。しかしながら、マーケットを広げるためにも重要なそれらの業務は、専門的なノウハウや充分な経験が必要です。中小・中堅企業ではそのような人員を置けない、または育てられないのであれば、外部の知見を取り入れることが課題解決に対して早く、安く済むと私は考えています。
戦国大名でも現在の経営者でも、実績を残した方は全てと言っていいほど優秀なブレーンが横にいたと思います。人材難の中小・中堅企業に対しては、そのブレーンの役目を当社が果たしたいと思っています。

当社では、日本国内の中小・中堅企業が、自社の技術・サービス・特徴などを現状のマーケットから外に広げられるような支援をすることで、各企業の売上や利益の拡大に寄与したいと考えています。
そして、少子高齢化および人口減少が進む日本経済を支える優秀な海外の人材を育成し、日本に来てもらえるような道筋を作りたいと思っています。
顧客企業の技術やサービスを現マーケットの「外」へ。優秀な海外人材を「内」へ。出すものと入れるものを流動化させることで、日本経済の活性化に寄与することが弊社のコンセプトです。

大学時代のラグビーが人生の転機に

人間には誰でも大きな人生の転機があると思います。私もいくつかの大きな転機がありましたが、その中でも思い出深いひとつの“転機”を最後にご紹介します。

私は中学から付属校に通い、そこでラグビーを始め、大学卒業まで10年間、ラグビー漬けの人生でした。
高校は全国大会に出場できるほどの学校ではありませんでしたが、高校1年の春からレギュラーになった私は、大学でも迷うことなく体育会ラグビー部に入部しました。大学は毎年日本一を争う強豪校でしたが、自分がレギュラーになることを疑わずに入部しました。

結果、4年間一度もレギュラーになることはできず、大学でのラグビー部生活は終わりを迎えます。
当時の部員は160人ほどで、毎年何人かのスポーツ推薦の学生も入部します。練習は誰にも負けないほどしたつもりでした。それでも、一度も公式戦に出場することはできませんでした。

4年目の大学選手権の決勝でチームは負け、私は、その試合を観客席で応援していました。普段は感情を表に出さない私でしたが、その日は人生の99%の涙を流したと思えるほど泣きました。
涙を出し切った後に、ほとんどラグビーだけに費やした4年間を振り返り、私は思いました。

「私はこの4年間、たくさんのことをチームから教わった。しかし、私はこのチームに何を与えることができたのだろう?私がいてもいなくてもこのチームは世の中に注目されただろうし、今日この日に国立競技場で大学選手権の決勝を戦っていただろう。」、「今まではアマチュアの学生スポーツの世界だから許されたことであり、社会人になったらこんな思いはしたくない。」

今までは学生だからと許されてきたことも、社会人になってからは許されなくなると思ったのです。それこそ企業に所属すれば、お金をもらうのだから、対価として結果を出すべきで、結果が出ないというのは通用しない。私は売上に貢献することが自分の役割だと思ったのです。

会長の相続対策の担当に抜擢

卒業後、業界最大手の損害保険会社に入社しました。単体で12,000人、グループでは2万人近い社員がいた会社でしたが、何とかそこで自分の価値を認められるようになりたいとずっと思って日々の業務や言動を行っていました。成績を上げるためなら、コンプライアンスの範囲内でできることはなんだってやろうと思っていました。
周囲にはおそらく生意気な新人と思われていたでしょう。上司からはとても良い評価をいただくこともあれば、残念な評価をいただくこともありました。

経過は省きますが、28歳の時に自分の願いが一部叶います。ある日突然、平社員の私が会長室に呼ばれました。不安の中で会長室に入った私に、秘書から次のように言われます。
「あなたはずいぶん相続に詳しいらしいね。会長の相続対策の担当をお願いします。」
つまり、大勢いる社員の中で、相続対策については私が社内で一番詳しいと認められたのです。企業のトップにそう思われるなんて、これはとんでもないことが起きたぞ、と思ったものです。組織に、人に、社会に貢献したいと思いながらコツコツやっていたことが実感できた瞬間でした。

入社から8年で、「企業の中で自分の価値を出す。」という目標が多少なりとも叶いました。そうなると次の目標は、「もっと広い世の中で自分の価値を出す。」ということになりました。
組織の中にいると自分の立ち位置が見えるため、目標を立てることも、その目標の達成度合いを測ることも比較的わかりやすいと思います。しかし、もっと広い世界に目を向けると優秀な経営者や知識人は数多くいますし、自分がその方々を超えられると、当時も今も思えません。
ただ、別にその方々を超える必要があるわけでもないので、今は自分ができることを精一杯やっていこうと考えています。

自分の役割が持つ責務を全うする

私は、子どもの頃から、世の中は人それぞれの役割がある、と思っていました。先生という役割、生徒という役割。それは社会人になってからも、今も変わりません。組織上の上下関係はあるものの、社長だからこの人は偉いだとか、平社員だからこの人は偉くないだとか、人間としての上下関係というものはないと思っています。
社長だけでは企業は成り立ちませんし、社長にも平社員にもお互いに役割があると思っています。

しかし中間管理職やマネージャーと呼ばれる人は、自分達の役割をあまり理解していない人が多かったように思います。短期的な視点で指示するだけで、長期的な視点で、どうやって全体を良くするかを考えないんですね。数字を取れという指示をするだけなら、その人は必要なくなってしまいます。数字を取るためのマネジメントをやらなくてはなりません。

自分の役割を理解し、その役割の持つ責務を全うすることは、企業に所属する社会人として大切なことだと考えています。社員一人ひとりが役割を理解し、責務を全うすることで、企業そのものが成長していきます。
それは、当社のお客様に対してもお伝えしています。期待して金額を支払ってもらい、その金額に対して責務を提供するというのが我々の役割です。

私の人生のポリシーは「筋を通した言動」をし続けることです。お世話になった方々、お客様、友人、家族への「筋」を忘れることなく、業務に邁進していく所存です。

長文をご精読頂きましたことを心から感謝申し上げます。

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